松平耕一『法政大学学生会館論』

◆資料1
・松平耕一『法政大学学生会館論』 http://p.tl/vEJ5
 松平さんは法政大学OB (在学期間は1999-2003)で、文芸空間社主宰。 http://literaryspace.blog101.fc2.com/     
 以下、重要と思われる部分を抜粋していきます。(転載の許可は取得済みです。)

 二〇〇一年度 日本文学研究会年間活動総括

 (6)学生組織における責任と主体
 ―九・二一ボアソ事件に関する見解と、「学館つぶし」対抗対策案―
 他大の学生会館は全国的に全て潰され、最後に残されたこの法政においても、公安警察・法大当局が一体となった学生会館潰しがいよいよ本格化し始めた。とりわけ二〇〇二年度から二〇〇三年度にかけて、学生会館始まって以来の、五・二七を超える最大の危機が訪れる事が見込まれる。しかし、我々は慌ててはいけない。全ての法大生が理性的に連帯すれば、この危機を乗り越えられるだろう。
 第一に、当局による規制はある程度飲んでもいい。もちろん基本的には徹底的にそれを弾劾し、抗議を行っていくべきであるが、二〇年前・三〇年前に較べて、我々を取り巻く社会状況は余りに変化し、余りに悪化し過ぎて来ている。その事を考慮に入れ、大学によるある程度の規制は受け入れた上で「学生会館自主管理」だけは護持するよう、当局と交渉するのがいいと僕は考える。「学費値上げは飲んでやったのだから、自主管理は続けさせろ」といった抗議が今後有効であるように思われる。
 第二に、理事会は諦め教授会レベルで「学館潰し」を否決させることが有効であるように思う。もちろん我々は当局追求行動の度に出来るだけ学生部に集結することは重要なことであるが、同時に個々の教授に直接に「学館の素晴らしさ」を訴えるべきである。ゼミや授業などで機会あるごとに、教授を学術の分野で圧倒しつつ、「学生会館存続の日本社会における必要性」を説くことに我々は力を入れるべきだ。「規制」に関しては理事会から直接学生部に降りて来るためあまり効果をもたないであろうが、「学館潰し」に反発してくれる教授を増やすことが出来れば、理事会の決定を教授会で覆すことが可能になるであろう。
 この二点を視野に入れつつ、さらに次の三項目に留意すべきである。

(以下、二項目抜粋)

 A.今後、責任の所在の不明確な抗議行動・暴力は糾弾すべきである
 九・二一ボアソ事件とは、「差別と殺戮を生み出す資本主義のシステムに、無自覚に奉仕し、それらを拡大させようとする法大総長・早大総長及び各種企業体の構成員に、自分達の暴力行為を自覚・認識させるために、身元不明の黒ヘル集団がボアソナードタワーで行われていた、私大連盟シンポジウムに突入した」事件なのだろうと僕は考えている。ボアソは貿易センタービル同様、資本という悪の物象化された姿だ。僕はこの事件に理念としては賛同できる。しかし、やり方は不味かったのではないか。
 その黒ヘル集団が学生会館に逃げ込んだという風聞により学生会館構成員に対して容疑がかけられ、靖国訪問時と会わせて学生会館に対する捜索は今年度、六回を数えるまでになった。カトリックの信仰が物象化された存在として教会があるのと同様、「国家及び資本の死滅」という理念が物象化された存在として「学生会館」がある限り、こういった形での警察権力及び国家権力との対峙はどうしても必然なものとなる。この度の捜索で公安がボックスに乗り込んでくる所に居合わせたのだが、彼は僕の「容疑はなんだ」という問いに答えられず上官のもとに容疑を聞きに戻っていた。自分のやっていることも分からず上官の意志に主体性を持たずに従い、日本という国の過誤に自覚なく貢献する公安の彼にまず、即座に上部廃絶をし理想社会を共に作りだそうよと訴えたい。又、ある学友が家宅捜索を受け、ゼミで行った埴谷雄高のレジュメを証拠物件として公安に押収されたと聞くが、僕はこの行為を弾劾する。二・三人返り討ちにしてやりたい位弾劾する。確かに埴谷雄高の思想は徹頭徹尾「刑務所の中の思想」であり、あらゆる組織と存在の総転覆を狙った危険思想であるが、政治的立場・思想的立場の自由を奪う劣悪な思想弾圧を僕は決して許しはしない。言論・出版の自由を奪う体制など糞食らえ、である。それにしても学館捜索の度に動員される二〇〇人近い機動隊、公安の人件費は一体いくらに膨れ上がっているものなのだろうか。学生がペンキをまいたという程度のことで、数千万円の税金が空費されているように思われる。国家のこれらの対応は往時に較べ、やけに過敏になっているのではないかと推測される。日本におけるノンポリ化・保守化は相当進行して来ているようだ。
 そういった思想の社会的な流れに乗って、ここ数年で暴力的に学館に対する攻勢を強めてきた当局に対する弾劾は徹底的に行うべきであろう。そこには確たる理由も、今後の日本のあり方に関する思想的な展望も見出せない。ひたすら自由と自主に対し否を突きつけるだけとしか思えない。学生会館の理念及び日本における運動の意義というものを一方的に否定し、それらに対する過去の総括や今後の日本のあるべき姿の提示もせず、差別と殺戮を拡大する資本主義システムへの傾倒を強め、一方的に学生への規制を強めるのが法政大学教職員の総体の意志であるというのならば、はっきりいって教職失格である。我々はどんどん学生部におしかけ、当局を追求すべきである。あらゆる大学職員に自己批判を要求すべきだ。私大連盟シンポジウムが蒙った災難は、当然下されるべき天啓であったとは思う。
 ところで、僕も日帝という組織に無自覚に貢献する人間に死を突きつけてやりたい気分になることは多々あるが、抜け駆けはよくない。少なくとも僕は日文研員全体の了承を採らずに日文研の存続を危機に陥れるような行為はしないように心がけている。やるならやはり、決定的に足が着かない方法を模索するか、全体の了承を採った上で犯行声明を出し責任の所在を明確にした上でやるべきである。学生会館は暴力を容認する組織なのだと、あるいはその行為が学生会館全体の意志だと捕らえられてしまうのはよろしくない。少なくとも僕はその行為に賛同した覚えはない。抗議内容も抗議理由も不明確で、相手にも本来味方であるはずの学友にもきっちりとその意図を示さずに行われる暴力的な抗議行動が成功するとは思えない。そういった行為は学生全体に不当逮捕される危険性をばらまきうるし、それをきっかけに学生内部での意志が分断しうる。そしてもちろん、学生会館全体にその行為の責任を取らされる形になるわけである。我々は半端な暴力で権力に立ち向かっても、より強大な暴力に押しつぶされることをしっかりと認識し、「責任の所在の不明確な暴力」に頼らずに「学生会館自主管理」を守り抜き、国家と資本を死滅させる方法を模索すべきである。何よりも怖れるべき事は、学生間における信頼関係の欠如である。我々は突発的な匿名による暴力の行使を忌避すべきである。

 B.「自主管理」を中心としての連帯をし、政治的なコンテクストはある程度抑えるべきである
 学生会館本部棟キャンパス側の壁に政治的なスローガンが恒常的に掲げられているが、あれは誰がどのような手続きにより文面を決定しているのか、僕にはよく分からない。学館構成員総体の意志であるのか、不明でもある。僕はあのスローガンに概ね賛成であるが、あのスローガンが自明なものであるとして、話が展開されがちである学生会館の現状は、抑圧と廃絶の権力がそのシステムに内在されているように思われて、どうかと思うのである。スローガンはボアソに対し否を突きつける学生会館の姿勢を象徴していて、まことに正しいものであるが、しかし「ボアソ学生」も非常に多いのが現状であり、学館とボアソの間に分かたれた距離は百メートルどころではない。ボアソ学生に対する排他性はもちろんある程度必要であろうが、それでも真に学術・文化・表現・体育を実践したいという学生に対し、学生会館は常に開かれているべきである。スローガンを見ただけで「こわ〜い」などと言い、四年間学生会館に立ち入らない学生の方が、既に数的に法大生の大部分である現状を踏まえ、我々は学生会館の運営をある程度無政治化し、「自主管理」という部分においてのみで、学生会館における連帯を成立させる、ということを建前とすべき時が来ているのではないか。読書はしない、政治を語らない。それが多くの学生の前提であるということを我々はよくよく認識し、明るく爽やかで開かれた学生会館を作り出す努力をすべきである。様々な思想を持つ学生が集まっていてこそ、学生会館存在の意義がある。

 サークル提起(去年の日文研活動総括より)
 僕は、学生会館を利用する機会のない学生に、「学館は法政のダニだ」と罵倒されたことがある。僕はその学生に反論を試みようとしたが、相手を納得させうる有効な回答をなしえなかった。
 学生会館の構成サークルは表現系サークル、学術系サークル、体育会系サークル等に大別されるだろう。もともとは、政治・社会・学術に興味があり学んでいきたいと考えている学生の多かった学術系サークルが、率先して学生会館を引っ張って運営して来ていた。けれども法政に入るそのようなタイプの学生自体が減少しているように思われる。又、入ったとしても現在の学術系サークルの活動内容に魅力を感じず、すぐに多くが離反する現状があるのではないか。
「サークル活動が活発に行われなければ、サークル員は増えない」。それはサークル運営に当たっての不文律であり、多くの学術系サークルを蝕む病であろう。学術系サークルのサークル員数は往時に較べて非常に落ちている。日文研は十四、五年前から六年前まで外部に敵を見出し、それと喧嘩することでサークルのまとまりを作り出していた。しかしその後、喧嘩は内部対内部の戦いに集中されるようになった。そして最近の新入生に関しては喧嘩自体を厭い、それの匂いが感じられると即座に引いていく様子を見せるようになった。
 共通の目標、あるいは共通の敵が組織の運営には必要なのであろう。営利組織においては共通の目標を「貨幣」に置く。貨幣を神とし、これの獲得を構成員全体で目指す宗教組織が営利組織である。ここには貨幣を獲得するための統一的行動を取れない構成員を排除する差別システムが現存する。体育会系サークルもまた、共通の練習と上下関係の秩序とゲーム自体によりシステム運営を保っている。むろんここにも年功序列と、「ゲームに強いか弱いか」という理念が支配する厳然とした権力構造及び差別システムにより組織運営が行われる。表現系サークルはそれぞれ映画を撮るとか演劇をするとかに共通の目標を置くのだろう。それらの組織は目標と、宗教的組織形態が確定されているため、逆に比較的スムーズに組織運営が行われる。では学術系サークルはどうなのか?文学系サークルは?前衛組織は?
 ソ連崩壊に伴うマルクス主義の衰退と、文系学術の持つ権威への不信感の増大はそれらのサークル、及び運動体に深刻な打撃を与えたものと思われる。学術はあまりに多様化・細分化・分裂化し、個々の人間がまとまるための統一見解は決定的に存在しなくなってきている。そして、殺戮と差別を生み出し続ける資本主義システムを破壊するためには「国家と資本を死滅」させなければならない。前衛組織において目標点はここに設定されるのであろうが、各種運動体においてそこへと至るための差し当たっての目標や、日々の闘争の対象がそれぞれ分散し混乱をきたしているように思われる。運動体として発生した学生会館であり二文連であったが、権威への反抗という概念やマルクス主義思想を前提としない学生が多数派となり、学術系サークルや本部の運営が苦しくなってきたのではないか。数十年前、学術系サークルが理論的支柱となり作り出した学生会館のシステムであったわけだが、団体・社会に対する主体性、自主性、自己責任感の欠落した学生の増加と、その結果としての学生会館の衰退が生じて来ている。「自主」を叫ぶこと自体多くの学生にとって、既に時代遅れなことなのかも知れない。「世界における自己の役割」という概念の消滅は宗教の衰退を呼び、「社会における自己の役割」という概念の消滅はノンポリ学生を増加させる。「友達や異性や企業」に対してどんな役割を果たせるか、それが多くの現代学生が必死に立ち向かうテーマである。

◆資料2
・2005-03-11「クロスロード=クリティーク」廃墟としての左翼 http://p.tl/0eoA
↑参考資料
井土紀州監督『LEFT ALONE』 http://p.tl/XwfC 
・映画一揆 井土紀州2011公式blogより 井土紀州『LEFT ALONE』製作ノート vol.2 http://p.tl/rSzM