平井玄氏インタビュー

 法政大学学生会館と関係が深く、ロックス・オフ草創期にアドバイザーとして関わられた、近・現代思想、音楽文化論に詳しい平井玄さんにインタビューを行いました。当時の音楽シーンや文化的土壌の解説、学生会館解体以後の法政大学にメスを入れるロングインタビューです。プロフィールはこちらを参照→ http://p.tl/QyA0

◆2011/11/14 新宿の喫茶店にて

――法政大学学生会館に関わった経緯

 発端はよく覚えていないんですが…おそらく竹田賢一さんが法政の「ロックス・オフ」のメンバーと接触したんだと思うんですよ。竹田さんはぼくにとって、音楽と政治、その根本から考える思想の多くの面で先輩といえる人ですね。あるいは彼らの方が接触してきたのかな? いずれにせよ、その中心メンバーが守屋君、安井君、あともう一人、後にディスク・ユニオンのジャズ関係のジャケットデザインなんかをやっていた与野君だった。そこでは、灰野敬二さんとかいわゆるアバンギャルドな音楽をやるミュージシャンを呼んで、他のライブハウスとかではできないようなこと、非常に面白いイベントが打たれていたんですね。80年代の初めに「天国注射の夜」という名の奇妙なコンサートがありました。法政の学館から始まって、日比谷の野音でやるころには「天国注射の昼」になる。山崎春美*1が編集していた『HEAVEN』っていう雑誌や、それから吉祥寺マイナーっていうライブスペースがあって、そこに集まる人たちを中心にバンド・ミュージックに限らないパフォーマンスなども含む雑食的な催しだった。1960年代の前衛アーティストたちが教える美学校の出身者たちなんかも参加していました。70年代の終わりぐらいに、高円寺に集まる「東京ロッカーズ*2っていう日本のパンクミュージックのムーブメントがあったけれども、瞬間的なパンクの激発からニューウェイブに音楽が抽象化というか、パンクという「停止」の衝撃を歴史化して深化していったときに、もっとノイジーアバンギャルドな焦点があったんです。ステージに平気で人間の流血や汚物が出現したりする。その吉祥寺マイナーに竹田さんが深く関わっていて、その成果を記録したピナコテカレコード*3もそこから生まれるんです。そういう汚辱に塗れたミュージックシーンをそのまま東京中心部の日比谷野音に持ってくる、そういうイベントが「天国注射の昼」だったんですよ。それをプロデュースしたのが、武蔵野美大全共闘運動をやった68年世代の女性だった。彼女が新宿で飲み屋を始めて、吉祥寺のマイナーと絡み合いながら、その周りにミュージシャンたちやパフォーマーや舞踏関係者が蠢く、そういうシーンが作られていった。その一つの形が法政学館にも関わってくる。そういういくつものポイントがあって相互に重なり合っている、1980年代の初めの東京前衛シーンはそういう状態だった。でも僕が法政の学館に初めて関わったのはそのもっと前、「ニュー・ジャズ・シンジケート(NJS)」関連だね。それはお客さんとして聴きに行ってますね。1977年ごろ、新宿3丁目で旧新宿高校全共闘の仲間たちと始めたライヴハウスに、そのピアニストの一人が出ていたんです。

――ロックス・オフのアドバイザーとして

 法政で企画したコンサートの主体は竹田さんたちとつくった実行委員会みたいなものだったんだけど、そこにロックス・オフのスタッフが実質的な実行者として関わっていた。彼らはほぼパンクスの世代ですね。つまり、パンク・ニューウェイブの音楽的な衝動から現れた新世代の人たちと、竹田さんや僕のように現代音楽やフリージャズが政治的な事と絡み合う状況に関心をもっていた人間たちとの接点が、法政の学館だったのかもしれない。雑誌『インパクション』で連載していた「同時代音楽通信」で80年代に同時進行する音楽=運動のレポートを書いていました。「音楽=運動」というのは音楽が運動をテーマ主義的に取り上げるのでも、運動が音楽を人集めに利用するのでもない、音楽そのものに内在する力が運動になるという僕らなりの表現です。まあ、足立正生*4さんの「映画=運動」から発想したんですが。僕の最初の本『路上のマテリアリズム』(社会評論社)という本に報告が載っています。その企画のひとつに「コンタムポラン・オーケストラ」というコンサートがあった。フリージャズ系やニューウェイヴ系のミュージシャンに加えて、暗黒舞踏系のダンサーやパフォーマーが同じステージに上がる。そこにさらに、ラテンアメリカグアテマラから来た活動家が加わって「不屈の民」をいっしょに歌うなんていうことが起こる。ステージ作りは竹田さんが関わっていたんだけど、僕は企画者として関わっていた。さらに批評を書くことによって介入したり、という関係ですね。政治的な力学でいえば、学館はセクトノンセクトとの連合体によって運営されていたと思うんですが、そこに直接関わったことはないですね。あくまで外部の人間としてロックス・オフのプロジェクトに関わっていた。特に主体として参加したのは、粉川哲夫さんと企てたアントニオ・ネグリの逮捕に抗議する「アウトノミア」イベントとか、木幡和枝さん、川仁宏さんたちと話した「アルバート・アイラーと未完の60年代」とかですね。68年が10年続いたという1977年イタリアのアウトノミア運動紹介のおそらく先駆けだったと思う。アイラーの方も、情念的に語られすぎていた60年代のニューヨークと東京に着地させる試みだった。その後は、山谷の日雇い労働者たちの闘いに没入していったせいか、少し足が遠のいてしまうんですね。だから、1996年の「MASADA」のライブには客として足を運んだだけですが、そこからまたユダヤ人たちの音楽クレズマーに首を突っ込んでいくことになる。僕にとって、だいじな節目に法政の学館があったということかな。そうかその前に、フレッド・フリスとトム・コラによるツイン・ワンマンバンドである「スケルトン・クルー」のライブがあったなー。竹田さんが中心となってニューヨークのダウンタウンから呼んだんだけど、これはその後、篠田昌己や大熊亘大友良英たちの動きに大きな影響を与えていく。その招聘にロックス・オフが密接に関わっていたんです。

――『PF』誌について

 80年代半ば当時、京都大学の助手だった浅田彰をはじめ、伊藤俊治四方田犬彦松浦寿夫といった少壮の学者たちが『GS』という名前の雑誌を出していた。「ニューアカデミズム」と呼ばれる思想動向の拠点でした。日本におけるポスト構造主義、いわゆるフランス現代思想の紹介の出発点になるんだけど、その傾向は68年の闘争から生まれたといえる思考法をバブル時代に合わせるように「脱政治化」した、とてもファッショナブルなものでした。硬直し乾涸びてしまった60年代新左翼思想に抑圧を感じるのはよく分かるんだけど、「闘争」はどこへ行ったんだ? という反発が僕なんかにもあったし、学館っていう場所そのものが、一方では先鋭的な企アート系イベントをやって、一方では政治的なものとの関わりが手放せないというスタンスの空間だった。『PF』(ポテト・ファシズム)っていう名前は『GS』(悦ばしき学問)に対するアンチテーゼなんですね。「悦ばしき知」というのは、ヘーゲル的なドイツ観念論体系に対するニーチェの哄笑なんです。一方で「ポテト」っていうのは、ドゥルーズ=ガタリ思想のキーワードである「リゾーム(根茎)」、高く繁る樹木ではなく地中に這う根の広がりという思考のイメージへのパロディでした。ポテトという鈍重な根を持つファシズムがあるよ。つまり、あまりに軽やかな脱政治化の風潮に対して政治的なものを対置するんだけど、それは新左翼セクトがいっているような政治ではない。もっと深いミューズ的なものが絡み合った政治の新しい形態みたいなものはありうるはずだ、ということなんです。

――法政大学学生会館の文化的価値とは?

 70年代の後半ぐらいから、日本では京大の西部講堂と法政の学館だけが、僕の言い方だと「60年代の未完の可能性」を継続して追求していった場所だと思う。そういう意味ですごく大事なところだった。大学と社会の境界線上にある、重要な空間だった。大学のバリケードが次々に破壊されていって、大学が学生運動を越えた解放空間としてあったような時代がついえていくような時に、残されたとても貴重で豊かな場所だったと思います。法政の場合は音楽の要素がかなり強かった。大田昌国さんが映画運動としての「黒いスポットライト」に関わっていたけれども。オランダのフリージャズ組織ICP(インスタント・コンポーザーズ・プール)が日本で初めてライブをやったのは法政学館だったはず。そういう実験的で社会的なミュージシャンを呼べるスペースがないんですよ、他には。ここで「社会」というのは国家に対抗するものという、日本では通りにくい意味なんです。僕が法政の学館でやっていた音楽で面白いと思ったのは、何かこうストレートに政治的なことをやりたいって思っていた人がほとんどいないところだと思う。政治的な文脈に音楽が乗せられるってことではない。学館で演奏すること自体が新左翼スローガンより豊かな「政治性」の萌芽を孕んでしまう。

――法政大学学生会館の解体について

 90年代に入ると、日本の学生運動っていうのは大学にとってもう完全に「不良債権」なんですよ。いかにして犠牲を少なく、資産的にもダメージを受けることなく、かつ社会的なイメージを悪くしない形で、この負債を処理できるかというのが経営的な問題になっていった。恐らく、政治的な体面を保ちたいセクトとの間で駆け引きが行われていて、取り壊しまでの期間が長引いたんだと思う。でも、その時には既に学館の文化的な生産力は失われていたと思う。
 学館解体については、大熊君から情報が伝わってきていた。「なんかやろう」と呼びかけられてね。でも率直に言うと、なくなるって事に対して抵抗はすべきだと思ったけれど、そこにしがみつくような運動でいいのかとは思っていた。どうしてもノスタルジックな思いが強くなってしまうね。

――法政大学学生会館解体以後の状況にメスを入れる 管理機能の肥大化

 それは当時、非常勤講師をしていた早稲田大学でも地下部室解体—新校舎建設が同時に進行していたことだったので、僕は考えていたんですけど。治安警察的な発想よりは、新自由主義的な発想によるものが強かったと思う。つまりコーポレート・ガバナンス。大学が完全に企業と同じように統治される。大学の理事会に金融機関系役員が送り込まれて、経営理念の新自由主義化がほぼこの頃に完成している。これを政治的な文脈だけで考えると、面白い対抗策は発想できないと思う。学生たちの「内面」がすでに統治されている。安全清潔派の支配というか、薄汚いものを排除したいという欲望に入学以前から満たされている。かつて法政大学は、米騒動の衝撃に始まる大原社会問題研究所や翻訳書で名高い出版局があるように、戦後社民的な左翼思想が強い大学でした。その法政ですら一番遅れた形で、徹底的にスマートになろうとした。いってみれば、10%ぐらい左翼的な色彩を残しながらネオリベ化していくってことになるわけだよね。立命館にちょっと似ている。
 大学に行く学資がない家庭の層がますます増えているわけで、まず一度はネオリベ大学から徹底して距離を置く必要があると思う。学費に比べてステータスが低い短大や専門学校に行く高校生が減ったから、進学率が上昇してきただけで、去年ついに大学院進学者も5000人減少したんです。院のコストパフォーマンス低下も明らか。これから人口減より下層化が大学生を減らしていくんじゃないか。小ぎれいな大学だけではもう対抗戦略は生まれない。まず大学からこぼれた連中から何かを創り出そう。これが「地下大学」*5を始めた理由の一つなんだよね。路地裏的な「場所」の匂いや可能性を考え直す必要があると思う。法政学館にはそういう汚れや匂いがあったんですよ。そこから大学会社空間に攻め上る。大学が完全に「就職予備校」化したのは常識だけど、半分はフリーターになるしかないのに「キャリアデザイン」ていうのは笑わせるよ、ホント。それでも定員割れしている大学が半分ぐらいあるんだけど、何故潰れないかっていうと文科省交付金があるから。それを取るためには文科省のいいなりになるしかないわけで、ますます大学制度を維持するっていうことが、従順で安く働く、いつでも首を切れる人間を作る工場経営と化している。学生運動は、大学がただの「企業」になっちゃったから企業をどう攻略するかっていう問題になったと思う。企業の中で運動をすることと同じなんです。文科省自身が「新しい教養」とか「学子力」とか言い出して、AO入試に歯止めをかけるなど、あまりの「清潔従順工場」に危機感を持ってるよ。

――対抗・抵抗の可能性を探る

 ツイッターフェイスブックやブログなどのネットメディア自体が「T.A.Z」*6なわけだけど、それだけじゃすぐ「日本」とか言い出して、陳腐でナショナルな欲動に引き込まれる事態が生まれているんじゃないかな、まさに今。歌や音や映像が自分の知らない場所へ人を惹きつける力みたいなもので、ありもしない「会社」の安定や「国家」の崇高なんかじゃないところへ繋ぐことができないかな、と思いますよ。党派が未だにやっているようなカルト集団化した形ではない空間政治の可能性はあると思う。法政では松本哉*7という一人の人間自体がもうT.A.Zだったんだよ。彼や矢部史郎*8のようなキャラが立つ奴が運動を作るということになっていったのは、ある時代の必然だったと思う。場所もないし、学内でデモもできないから個人の身体感覚だけが拠点になる。それさえ、追い出される形になった。
 具体例としては、学生自身が非正規労働者として働いている人間と同じレベルで要求を行っていく。日本だと実際に、大学生が借りている奨学金を踏み倒す運動がある。そういうタイプの、学生が学生としての立場でいうよりも、学生が社会で生きていけないからやると。大学は「会社」「幻想製造工場」なのに賃金も払われず、逆に払っている。だから払わん。法政にいる学生がそこまで追い込まれているかどうかはわからないけれど。でもやっぱり、会社と同じように大学の中で運動をやるのは苦しいと思う。ニュートラルな規制として「統治」が現れて、それを学生が内面化してしまう。そこに隙間をつくるのがT.A.Zで、その隙間を広げるのがoccupy(占拠)運動だと思うんだけれどね。法政の学館の記憶は必ずその役に立ちます。

――長い時間ありがとうございました

新版 路上のマテリアリズム―電脳都市の階級闘争

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