大熊ワタル氏インタビュー

2011/07/01に行った大熊ワタル氏のインタビュー動画です。(2分割)
プロフィールはシカラムータのHP(http://www.cicala-mvta.com/)を参照。
 


 法政大学学生会館での最後のライブに出演し、自身でも学生会館についての文章を書いている大熊ワタル氏。
『音の力〈ストリート〉占拠編』(インパクト出版会)に収録された「コンクリートは解体しても歌の在りかを消せはしない―法政〈学館〉の記憶のために」から重要な部分を抜粋して紹介していく。

・The Same Old Songs
 2004年11月21日、法政大学学生会館。酔っ払った学生たちがやけっぱちな調子で高吟しながら学館に入っていった。僕はこの日、学館のホールで最終イベントとなった学祭オールナイトコンサートの舞台に立つことになっていた。(中略)
 学館には乱痴気が似合っている。僕らも、思いっきり乱暴に演奏した。しかしお祭り騒ぎの気分ではないのだ。盛り上がって終わりで、それでいいのか。舞台の闇のなかでステージの精霊たちは何を思っているんだろう。ステージは演りきった。しかし終演後も、もやもやが残ったままだった。
 そして、すっきりしないまま数週間後、ふと気になって、取り壊しが始まったという学館の様子も見に行ってみた。天井や壁は大部分取り除かれ、ホール内部が青天井に無残な姿をさらしていた。しかし、それはホールの精霊が、僕に見てほしくて呼んだのかもしれないと思うほどだった。
 それからだ。僕が学館の追悼文を書くことにしたのは。みんなはどう思っているんだろう。いろいろな人たちと話がしたくなってきた。

・追悼・法政大学学生会館 1973〜2004
 学生の自主管理のもと、意欲的なコンサート企画などで、西の西部講堂・東の学館と、並び称されてきた法政大学学生会館が、昨年(2004年)末からついに解体作業に入った。(中略)
 そこで、関係サイト「法政大学学生会館閉鎖〜新複合施設建設に関する情報」に挙げられた説明会議事録(7月)を見ると、学生部長の説明で以下のような下りが目に付く。「ご存知の通り現在高齢化や少子化が進む中で、やはり大学の生き残りをかけるためには、新複合施設の建設による教育環境と学生サービス環境の改善・充実が不可欠でございまして、もともと手狭で貧弱なキャンパスをやはりより有効な方法で再開発する必要があると考えたわけです。」
「生き残りのための施策」を、ボヤのあと、あわてて考えたわけでもないだろう。今後の学生数の減少をにらんだ中長期的な計画の一環とみるのが相当ではないか。(中略)
 以上から見えてくるのは、ボヤのあるなしに関わらず、学館は早々に取り壊すつもりだったであろうこと。そして「自主管理」は学生側の失点もあり、学館とともに葬り去られようとしている。(中略)
 筆者はホールのたんなる出演者にすぎないし、学内事情に特別の興味はない。しかし、少なくとも80年頃から、ほかでは見られない、学館ならではの公開ライブ・企画が数多く打たれてきたことを知っている。少なくとも二回、決定的なライブに立ち会っているし、そればかりか、何度もホールの舞台に立たせたいただいた。とりわけ最終の学館オールナイトコンサートに呼んでもらい、ホールに別れの挨拶ができたのは忘れられない記憶になるだろう。(中略)
 最後にもうひとつ。30年間の開かれた場としての記憶・記録はどう総括され、共有されていくのか、いかないのか。この一件について、今のところどこからも何も聞こえてこないのはあまりにさびしいことではないだろうか。それでいいのか!? 学館が泣いてるよ!

・極私的学館ノート〜東京街路'79
(中略)自分たちの自主管理空間……? すべて学生たちで自主的かつ非営利的に運営されている。たとえば折込のビラも営利的とみなされれば入れてもらえない。録音物などの販売も基本的にできない。音響や照明も学生たちだな〜……。しかし、普通のライブハウスにはない面白い匂いがする場所……。

・学館/ROCKS→OFFにかんする2、3のできごと
 注:ROCKS→OFFの発足は78年〜79年であり、79年にも恒常的に公開コンサートが企画されたようであるが、方向性などにおいて不満が残るものだったようだ。
(中略)一般の音楽関係者・愛好者にとっては、学館とはROCKS→OFFのコンサート、といった印象がほとんどだろう。それだけROCKS→OFFが展開した企画は、特に80年代前半、半端なものではなかった。
 そして、80年代前半の当初、ROCKS→OFFの顔といえば守屋正だった。(中略)
「場所なし。何でもやりたかった。当時はまだライブハウスも少なかった。そこへ、自分のホールが持てる! とにかく死ぬほどライブをやろう! ……そう思った」(守屋氏)
 こうして80年のImaging kids garage 3days コンサートを皮切りに、同年度15本、81年度30本、82年度25本、83年度22本……と爆発的な勢いで自主コンサートが企画され、東西のパンク、ニューウェーブ勢を中心に新旧のアンダーグラウンドバンドが怒涛のように出演している。(中略)
 アンダーグラウンドでも最深部の面々や、逆に全く無名のニューフェイスでも話題性があれば顔を並べていて、企画サイドで幅広く目配りを利かせていた様子がうかがえる。
 そして、82年頃から、プログラム編成に、あらたな傾向が出てくる。次第にパンク・ニューウェイブの「うさんくささ」、つまり、反体制っぽさを装うその身振りの薄っぺらさが鼻についてきたのだという。

・「裏方もスタッフも表現者だ」
 それまでの学館の利用が自分たちのやりたいことをやる、という至極当たり前な目的から学生だけの場でなく、外に開いた自律的公共空間を恒常的に提示するというROCKS→OFFの発想は、それまでの学館利用のありかたを大胆に更新する画期的なものだったろう。とはいえ、それは、学館自主管理の内在的性格=開放・共有といったものの展開だったはずだ。(中略)
「私達は学生会館を単なる建物としてとらえるのではなく、「運動体」としてとらえています。建物を静的な「器」としてとらえず、自主管理という運動理念のもとに私達の自主的文化創造の場へ開放してゆくことが学館自主管理なのです。」(80年度第1回目ROCKS→OFF企画コンサート「Imaging kids garage」パンフより)
「我々ROCKS→OFFは、一段高いステージの上でくりひろげられる既成のシステムを拒否し、我々自身の手で管理してゆけるシステムを創出してゆくと言う方針を打ち出している。また、それは、様々なシーンで活動を続ける外部の運動体とのコミュニケートをはかり、我々の「ストリート・シーン」を形成してゆこうとする動きにもなっている。」(81年度学生連盟発行「学生会館への案内」より)
 法政学館といえば、京大西部講堂と並び称されたものだが、70年代から数々のロックコンサートなどでカウンターカルチャーの殿堂・牙城として知られていた西部講堂は学館スタッフの当事者においても、自主管理空間の先行モデルのひとつとして明確に意識されていたようだ。

・メディアの牢獄から自律空間へ
 西部講堂、法政学館、自主管理と並べると、どうしても連想されるのは同時期にヨーロッパ各地で盛り上がった「アウトノミア(自律)運動」ではないだろうか。そして法政学館でも実際に、当時アウトノミア運動の紹介で注目を集めた粉川哲夫氏をメインスピーカーに招いたイベント「パフォーマンス&ディスカッション インジェイルVol.1」が打たれ(83年6月)、粉川氏によるアウトノミア運動の紹介、当時獄中にあったトニ・ネグリのメッセージ代読など、多数の被弾圧者への連帯がはかられた。また実際に、自由ラジオの実験や、ライブ演奏・運営形態なども含め、「アウトノミアのコピーではなくその創造性の『密輸入』を通じて、"運動の想像力"のトレーニングを積むこと」(平井玄)が試行された。
 今でもヨーロッパでは、いたるところ、どんな地方都市にも、廃工場をなどを占拠した自主管理空間があり、小は共同居住空間から、ホール、映画上映室、食堂を備えた大規模な施設まで、さまざまなバリエーションが見られる。表面的に言ってしまえば、まさに「千の学館・千の西部講堂」があるのだが……。(中略)
 
 以下、粉川哲夫氏のコメント(編者注)

「基本的には、日本では、道路交通法をみてもわかるように、「自主管理」は不可能な法制度・慣習になっているわけです。そのへんは、根本的に海外とは違うと思います。」(中略)
 また、学館のような自主管理空間が、結果的に法政でのみ可能だったことについて、粉川氏は学内政治力学、つまり、「セクト・当局・事務系の旧左翼系など、複数の政治勢力のせめぎあいがあり、その隙間のような空間があったからではないか」と分析。さらに学生をめぐる環境の変化について、以下のように語ってくれた。
「90年代を境に大学の運営状況(経営難)、学生の政治意識が変わったことも関係があると思います。最近の学生意識の変化(「柔順」、「権威に対する恭順」)は、アルバイト環境の変化(マニュアルによる徹底した教育)とも深い関係があるでしょう。アルバイト先で命令に従うことをたたきこまれるため、自己主張をしないという意識をうえつけられている。やりようによって「おいしい」アルバイトは、70〜80年代よりも増えていますが、それだけ、雇う方は好きなように「教育」できるので、それだけ「洗脳」される度合いも強くなるというわけです。」
(中略)学館解体の噂が広まって以降、僕の知る範囲では、近藤康太郎氏が朝日新聞や『週刊金曜日』に書いた記事以外、学館解体にふれる言葉は見あたらなかった。

・追記(以下は編者によるまとめ)

佐藤浩秋氏の証言
(ニュー・ジャズ・シンジケート(NJS)について)
・NJSは、ピアニスト原寮を中心に形成された。
・学館ホールのテストパターンで出演した庄田次郎と原のグループが元になっている。
・1969〜71年夏まで新宿ピットインの2階に存在した、当時ほぼ唯一フリージャズのための場だった「ニュージャズ・ホール」。この閉鎖後、失われた自由空間を再び創ろう、との呼びかけで結成されたのがNJSだった。個人参加を原則に、若手プロから学生らアマチュアが集まった。阿部薫、井上敬三、梅津和時近藤等則富樫雅彦、豊住芳三郎など、当時のフリージャズ系ミュージシャンがゲストとして関わった。

(実力入館時の事)
・入館以降は、夜間ロックアウトや鍵の管理などをめぐる「三条件・六項目」を粉砕する闘いとして学館闘争が続けられた。1977年の夜間ロックアウト粉砕闘争での弾圧(たてこもった308名全員逮捕)は戦後の学生運動でも最多記録である。

○品田豊樹氏の証言(70年代後半世代の問題意識について)
1、「三条件・六項目解体」「学館自主管理貫徹」「(多摩)移転阻止」
2、オールナイトコンサートや外部に開かれた多様な企画は、夜間立ち入り禁止・学外者立ち入り禁止といった規制を実質的に無効化するものだった。サークル文化活動は余暇・趣味・息抜きのレベルでなく、社会と自己の緊張関係の中でとらえられていた。
3、音楽系サークルは、ヤマハ的商業主義や、硬直した社会主義リアリズム的発想を批判して、自前の表現を追及するというような意識であった。

木部与巴仁氏の証言
・1975年発足の「ロッキー・スーパー・ショー」が、78〜79年に当時のパンクムーブメントに触発された形で「ROCKS→OFF」と改称した。

○赤岡広章氏の証言
・1994年に自治会費の流れが凍結される出来事があり、学館自主企画のトーンダウンに繋がる転機だったという認識は間違いない。
セクト派の学生とノンセクトの学生とではとでは学館運営や大学当局に対する行動に対して、意見の相違があった。ここで発生した暴力事件によって、学館運営に大きく支障をきたすことになった。
・学生気質の虚弱化の一端は、学館に頼らなくてもサークル活動できる外部の環境の変化にある。音楽サークルは定例ライブが、一般のライブハウスで行われる頻度が増えた。映画サークルは学館でイベントを行う回数が年に数回という状況だった。よって、学館に対する依存度が減っていった。
・組織運営や運動そのものに関心を持つ学生は極端に減り、そうした学生は「奇特」とされ、本部組織へ代表を出すことを「人身御供」などと揶揄する向きもあった。


 『10周年記念「シカラムータ凸凹珍道中漂流記」』での学生会館にまつわる話
・平井玄×大熊ワタル対談より 一部抜粋

(大熊)抵抗の盛り上がりもなかった。一部であったとしても、外までは聞こえてこない。少なくとも、一般学生は容認なんでしょう。

(大熊)かつては、法政の学館とか、拠り所になるスペースがあったんだけど、それも名実ともなくなって、どういう動きになっていくのか。そういうホール的な場所がなくても動いていけるような、サウンドデモみたいなのにシフトしてきてるのかもしれないですけどね。

音の力 〈ストリート〉 占拠編

音の力 〈ストリート〉 占拠編