◆1983/07/10発行、ROCKS→OFFの中間総括的パンフレットである『PF』誌の内容紹介。
ROCKS→OFFが備えていた批評的な音楽センスと、外部に開かれた"ライブハウス"としての「学館大ホール」を象徴するような一冊になっている。
――音楽は鍛冶屋だ
○リトゥル・ネッロ<ソン・メタリック>の消息 浅田彰
ヘルメスのいるところにはつねに音楽がある。
そして、どこにもいないようで実はいたるところにいるのがヘルメスなのだ。
音たちは、ありとあらゆるところで立ちさわぎながら、
いつしかメタリックな輝きをおび、
コスモスにむかってジャンプしようとする。
そんな音たちをアポロンの「音楽」から解き放ち、
自在に旅立たせてやること。
それこそ、ヘルメティックな音の錬金術師のつとめであり、
大いなるよろこびなのである。………………
○現代の音楽と環境 環境音楽を考える背景と その四囲をめぐるスケッチ 竹田賢一
だが、「一人一人の要求に応じた形で音楽を提供できる双方向のコミュニケーション・システム」にしても、
そのマティリアルの制作者は一方にしかいないのではないだろうか。
実際、現在の資本主義は、
とりわけ小売業界において顕著だが、
カスタム・コモディティーの開発を重要な課題としている。
今ぼくたちを包囲する音楽的環境に対する取り組みに必要なのは、
"環境音楽"に浸ることではなくて、
音楽を環境としてあるものから環境を変える道具に、
使い替えることだろう。
○ブルース・ファウラー インタビュー 何ものにも開かれた「気分」でいたいんだ
○二つの大戦間音楽 細川周平
○Toshi is a great OLD friend…… Millford Graves
○近藤等則インタビュー ゼロを越えて
○Message From My Jaurny より深遠なる音世界を旅するには、自身を果てなき旅に追いやるほかにない。
土取利行
○メタ・エスニックな土取利行の音楽 竹田賢一
○GAKKAN BATTLE GRAFFITI
写真:Phew,ジョン・ダンカン,ペーター・ブロッツマン/近藤等則,林英哲,じゃがたら,フールズ+山口富士夫,千野秀一,裸のラリーズ,サムルノリ
○文化衝突の中の音楽【連載Ⅰ】 ボブ・マーリィの後期について再考する レゲエ1977-1983
遠藤斗志也
○セネガル詩人との恥ずかしい出会い 大田昌国
○<即興>のミクロ・ポリティックスへ 平井玄
「君がファシストか革命家であるならば、それはまず、君自身との関係、君の超自我のレベルにおいてであり、身体や感覚への君の関係、君の夫や妻、子供、同僚との関係、正義や国家などを君自身の中にはらむ君のやり方においてである。ここには不可分の連続性があるわけだ。」 フェリックス・ガタリ
○サボテン インタビュー あたしたちってとっても頭を使うのよ。バンドって真剣な気晴らしね。
○管理の閉塞から雑音の秩序へ 宇波彰
画一的・同質的なもの、管理主義体制に対して、われわれはどのように対抗すべきであろうか。…(中略)たとえば、同質のグループのなかに、何か異質なものを注入することである。…(中略)ドゥルーズ=ガタリが考えたような、リゾーム(根茎)的な構造をいたるところに設定しようとすることである。私がこういう文章をここに書くように依頼されたのは、そういうリゾーム的な構造を作ろうとするひとつの志向のあらわれだと私は理解している。
○FOOT WORK 1980-1983 ROCKS→OFF & THEATER ZERO(1980-1983までの公演年表)
○編集後記にかえて・・・・・気分或いは積極的無責任
「問題は、戦略として効果的かどうかではないと思う。局部でたえず何か具体的に起こっていればいいのです。大文字の『責任』を口にするひとたちは、ぜったいに局部が見えない。存在しないのです。重要なのは、局部に階層的秩序とか方向とかを導入しないこと。局部は無限に捏造可能です。完結しない物語をいたるところに戯れさせること。それを無方向に継承しあうこと。…(中略)そうした開かれた主体として自分を局部化すれば、どこかで何かが起こりつづける。そのかぎりにおいて、大文字の『責任』は形成されえない。それでいいじゃないかという楽観論にいまは到達しているのですけれどもね。」(蓮實重彦)
「個々の政治的トピックを扱うことが必要じゃないとはもちろん言わないけれども、今むしろ必要なのは"気分"という次元じゃないかと思う。……音楽の一番政治的な部分というのは"気分"に対する関わり方じゃないかと最近思っているわけ。つまり、"政治に関わる"というよりも、"音楽が政治的であるということは、音楽が気分を対象としているということ"なんだ。」(竹田賢一)
編集長:守屋正