安井豊作氏インタビュー

 法政大学OB、映画評論家の安井豊作氏にインタビューを行いました。
 80年代前半、学館文化の最盛期にROCKS→OFFの中心人物として、数々の企画を運営された人物です。

・インタビュー動画(5分割)





※インタビュー中で出てくる、法政大学学生会館解体時のドキュメンタリー映画『ROCKS→OFF』は現在同氏が製作中です。今後、タイアップ企画やイベントなども予定しています。随時、情報は本ブログでお知らせします。

ロスト・イン・アメリカ

ロスト・イン・アメリカ

シネキャピタル

シネキャピタル

真利子哲也監督 『マリコ三十騎』

 真利子哲也氏(法政OB,映画監督)
 最新作『NINIFUNI』は2012年2月より全国順次ロードショー。詳細→ http://ninifuni.net/
 
・作品紹介
 マリコ三十騎
 2004年/日本/8mm→ビデオ/24分
 製作・監督・脚本・撮影・録音・編集・主演:真利子哲也
 大学構内に学生会館があり、向かいには新築の校舎が建っている。学館で過ごしている男にとって新築の校舎は馴染めない。ある日、自分の先祖が海賊であると思い込んだ男は先祖に思いを馳せて、新築の校舎に果敢に飛び込んでいく。廃れゆく学生会館と8mmフィルムへの個人的オマージュである。
(キノ・トライブ2011 独立映画宣言!より http://a-shibuya.jp/archives/1268

・短評
 真利子哲也監督は2004年に法政大学を卒業した。すなわち、最後の学館世代に属する学生である。
 大学構内の左側には26階立てのボアソナードタワーが聳えたち、右側には今にも崩れ落ちそうな廃墟としての学生会館がべったりと張り付いている。映画の冒頭では学生会館の屋上から大学構内を俯瞰するシーンが描かれる。両者を新しいもの/古いものという対立項で描くだけでなく、真利子監督自身がどっちつかずの状態として存在している。この「今ここ」にあるキャンパスで真利子監督は先祖の力を借りて、新築の校舎=ボアソナードタワーにふんどし一丁で飛び込み、絶叫する。どうにもならないものへの思いを本能で表現する。一仕事終えた後、自分のいるべき場所(古びた学生会館の屋上)へとダッシュでかけ戻る。またここでボアソナードタワーと学生会館屋上の対比が繰り返し強調される。最後に作中で「この映画を8mmフィルムで撮ることが大学生活のケジメなのだ」と語られる。これは学生会館を、建物の記憶を監督自身の手で封印しようとする試みだったのかもしれない。故に8mmフィルムを使用したのだ。
 この映画ではボアソナードタワーと学生会館の奇妙な同居が描かれているだけでなく、正門からの風景が現在の舗装された風景と全く違っていて、2004年以前/以降の「変革」がよりリアルに感じられる映像資料としても貴重だ。

松平耕一『法政大学学生会館論』

◆資料1
・松平耕一『法政大学学生会館論』 http://p.tl/vEJ5
 松平さんは法政大学OB (在学期間は1999-2003)で、文芸空間社主宰。 http://literaryspace.blog101.fc2.com/     
 以下、重要と思われる部分を抜粋していきます。(転載の許可は取得済みです。)

 二〇〇一年度 日本文学研究会年間活動総括

 (6)学生組織における責任と主体
 ―九・二一ボアソ事件に関する見解と、「学館つぶし」対抗対策案―
 他大の学生会館は全国的に全て潰され、最後に残されたこの法政においても、公安警察・法大当局が一体となった学生会館潰しがいよいよ本格化し始めた。とりわけ二〇〇二年度から二〇〇三年度にかけて、学生会館始まって以来の、五・二七を超える最大の危機が訪れる事が見込まれる。しかし、我々は慌ててはいけない。全ての法大生が理性的に連帯すれば、この危機を乗り越えられるだろう。
 第一に、当局による規制はある程度飲んでもいい。もちろん基本的には徹底的にそれを弾劾し、抗議を行っていくべきであるが、二〇年前・三〇年前に較べて、我々を取り巻く社会状況は余りに変化し、余りに悪化し過ぎて来ている。その事を考慮に入れ、大学によるある程度の規制は受け入れた上で「学生会館自主管理」だけは護持するよう、当局と交渉するのがいいと僕は考える。「学費値上げは飲んでやったのだから、自主管理は続けさせろ」といった抗議が今後有効であるように思われる。
 第二に、理事会は諦め教授会レベルで「学館潰し」を否決させることが有効であるように思う。もちろん我々は当局追求行動の度に出来るだけ学生部に集結することは重要なことであるが、同時に個々の教授に直接に「学館の素晴らしさ」を訴えるべきである。ゼミや授業などで機会あるごとに、教授を学術の分野で圧倒しつつ、「学生会館存続の日本社会における必要性」を説くことに我々は力を入れるべきだ。「規制」に関しては理事会から直接学生部に降りて来るためあまり効果をもたないであろうが、「学館潰し」に反発してくれる教授を増やすことが出来れば、理事会の決定を教授会で覆すことが可能になるであろう。
 この二点を視野に入れつつ、さらに次の三項目に留意すべきである。

(以下、二項目抜粋)

 A.今後、責任の所在の不明確な抗議行動・暴力は糾弾すべきである
 九・二一ボアソ事件とは、「差別と殺戮を生み出す資本主義のシステムに、無自覚に奉仕し、それらを拡大させようとする法大総長・早大総長及び各種企業体の構成員に、自分達の暴力行為を自覚・認識させるために、身元不明の黒ヘル集団がボアソナードタワーで行われていた、私大連盟シンポジウムに突入した」事件なのだろうと僕は考えている。ボアソは貿易センタービル同様、資本という悪の物象化された姿だ。僕はこの事件に理念としては賛同できる。しかし、やり方は不味かったのではないか。
 その黒ヘル集団が学生会館に逃げ込んだという風聞により学生会館構成員に対して容疑がかけられ、靖国訪問時と会わせて学生会館に対する捜索は今年度、六回を数えるまでになった。カトリックの信仰が物象化された存在として教会があるのと同様、「国家及び資本の死滅」という理念が物象化された存在として「学生会館」がある限り、こういった形での警察権力及び国家権力との対峙はどうしても必然なものとなる。この度の捜索で公安がボックスに乗り込んでくる所に居合わせたのだが、彼は僕の「容疑はなんだ」という問いに答えられず上官のもとに容疑を聞きに戻っていた。自分のやっていることも分からず上官の意志に主体性を持たずに従い、日本という国の過誤に自覚なく貢献する公安の彼にまず、即座に上部廃絶をし理想社会を共に作りだそうよと訴えたい。又、ある学友が家宅捜索を受け、ゼミで行った埴谷雄高のレジュメを証拠物件として公安に押収されたと聞くが、僕はこの行為を弾劾する。二・三人返り討ちにしてやりたい位弾劾する。確かに埴谷雄高の思想は徹頭徹尾「刑務所の中の思想」であり、あらゆる組織と存在の総転覆を狙った危険思想であるが、政治的立場・思想的立場の自由を奪う劣悪な思想弾圧を僕は決して許しはしない。言論・出版の自由を奪う体制など糞食らえ、である。それにしても学館捜索の度に動員される二〇〇人近い機動隊、公安の人件費は一体いくらに膨れ上がっているものなのだろうか。学生がペンキをまいたという程度のことで、数千万円の税金が空費されているように思われる。国家のこれらの対応は往時に較べ、やけに過敏になっているのではないかと推測される。日本におけるノンポリ化・保守化は相当進行して来ているようだ。
 そういった思想の社会的な流れに乗って、ここ数年で暴力的に学館に対する攻勢を強めてきた当局に対する弾劾は徹底的に行うべきであろう。そこには確たる理由も、今後の日本のあり方に関する思想的な展望も見出せない。ひたすら自由と自主に対し否を突きつけるだけとしか思えない。学生会館の理念及び日本における運動の意義というものを一方的に否定し、それらに対する過去の総括や今後の日本のあるべき姿の提示もせず、差別と殺戮を拡大する資本主義システムへの傾倒を強め、一方的に学生への規制を強めるのが法政大学教職員の総体の意志であるというのならば、はっきりいって教職失格である。我々はどんどん学生部におしかけ、当局を追求すべきである。あらゆる大学職員に自己批判を要求すべきだ。私大連盟シンポジウムが蒙った災難は、当然下されるべき天啓であったとは思う。
 ところで、僕も日帝という組織に無自覚に貢献する人間に死を突きつけてやりたい気分になることは多々あるが、抜け駆けはよくない。少なくとも僕は日文研員全体の了承を採らずに日文研の存続を危機に陥れるような行為はしないように心がけている。やるならやはり、決定的に足が着かない方法を模索するか、全体の了承を採った上で犯行声明を出し責任の所在を明確にした上でやるべきである。学生会館は暴力を容認する組織なのだと、あるいはその行為が学生会館全体の意志だと捕らえられてしまうのはよろしくない。少なくとも僕はその行為に賛同した覚えはない。抗議内容も抗議理由も不明確で、相手にも本来味方であるはずの学友にもきっちりとその意図を示さずに行われる暴力的な抗議行動が成功するとは思えない。そういった行為は学生全体に不当逮捕される危険性をばらまきうるし、それをきっかけに学生内部での意志が分断しうる。そしてもちろん、学生会館全体にその行為の責任を取らされる形になるわけである。我々は半端な暴力で権力に立ち向かっても、より強大な暴力に押しつぶされることをしっかりと認識し、「責任の所在の不明確な暴力」に頼らずに「学生会館自主管理」を守り抜き、国家と資本を死滅させる方法を模索すべきである。何よりも怖れるべき事は、学生間における信頼関係の欠如である。我々は突発的な匿名による暴力の行使を忌避すべきである。

 B.「自主管理」を中心としての連帯をし、政治的なコンテクストはある程度抑えるべきである
 学生会館本部棟キャンパス側の壁に政治的なスローガンが恒常的に掲げられているが、あれは誰がどのような手続きにより文面を決定しているのか、僕にはよく分からない。学館構成員総体の意志であるのか、不明でもある。僕はあのスローガンに概ね賛成であるが、あのスローガンが自明なものであるとして、話が展開されがちである学生会館の現状は、抑圧と廃絶の権力がそのシステムに内在されているように思われて、どうかと思うのである。スローガンはボアソに対し否を突きつける学生会館の姿勢を象徴していて、まことに正しいものであるが、しかし「ボアソ学生」も非常に多いのが現状であり、学館とボアソの間に分かたれた距離は百メートルどころではない。ボアソ学生に対する排他性はもちろんある程度必要であろうが、それでも真に学術・文化・表現・体育を実践したいという学生に対し、学生会館は常に開かれているべきである。スローガンを見ただけで「こわ〜い」などと言い、四年間学生会館に立ち入らない学生の方が、既に数的に法大生の大部分である現状を踏まえ、我々は学生会館の運営をある程度無政治化し、「自主管理」という部分においてのみで、学生会館における連帯を成立させる、ということを建前とすべき時が来ているのではないか。読書はしない、政治を語らない。それが多くの学生の前提であるということを我々はよくよく認識し、明るく爽やかで開かれた学生会館を作り出す努力をすべきである。様々な思想を持つ学生が集まっていてこそ、学生会館存在の意義がある。

 サークル提起(去年の日文研活動総括より)
 僕は、学生会館を利用する機会のない学生に、「学館は法政のダニだ」と罵倒されたことがある。僕はその学生に反論を試みようとしたが、相手を納得させうる有効な回答をなしえなかった。
 学生会館の構成サークルは表現系サークル、学術系サークル、体育会系サークル等に大別されるだろう。もともとは、政治・社会・学術に興味があり学んでいきたいと考えている学生の多かった学術系サークルが、率先して学生会館を引っ張って運営して来ていた。けれども法政に入るそのようなタイプの学生自体が減少しているように思われる。又、入ったとしても現在の学術系サークルの活動内容に魅力を感じず、すぐに多くが離反する現状があるのではないか。
「サークル活動が活発に行われなければ、サークル員は増えない」。それはサークル運営に当たっての不文律であり、多くの学術系サークルを蝕む病であろう。学術系サークルのサークル員数は往時に較べて非常に落ちている。日文研は十四、五年前から六年前まで外部に敵を見出し、それと喧嘩することでサークルのまとまりを作り出していた。しかしその後、喧嘩は内部対内部の戦いに集中されるようになった。そして最近の新入生に関しては喧嘩自体を厭い、それの匂いが感じられると即座に引いていく様子を見せるようになった。
 共通の目標、あるいは共通の敵が組織の運営には必要なのであろう。営利組織においては共通の目標を「貨幣」に置く。貨幣を神とし、これの獲得を構成員全体で目指す宗教組織が営利組織である。ここには貨幣を獲得するための統一的行動を取れない構成員を排除する差別システムが現存する。体育会系サークルもまた、共通の練習と上下関係の秩序とゲーム自体によりシステム運営を保っている。むろんここにも年功序列と、「ゲームに強いか弱いか」という理念が支配する厳然とした権力構造及び差別システムにより組織運営が行われる。表現系サークルはそれぞれ映画を撮るとか演劇をするとかに共通の目標を置くのだろう。それらの組織は目標と、宗教的組織形態が確定されているため、逆に比較的スムーズに組織運営が行われる。では学術系サークルはどうなのか?文学系サークルは?前衛組織は?
 ソ連崩壊に伴うマルクス主義の衰退と、文系学術の持つ権威への不信感の増大はそれらのサークル、及び運動体に深刻な打撃を与えたものと思われる。学術はあまりに多様化・細分化・分裂化し、個々の人間がまとまるための統一見解は決定的に存在しなくなってきている。そして、殺戮と差別を生み出し続ける資本主義システムを破壊するためには「国家と資本を死滅」させなければならない。前衛組織において目標点はここに設定されるのであろうが、各種運動体においてそこへと至るための差し当たっての目標や、日々の闘争の対象がそれぞれ分散し混乱をきたしているように思われる。運動体として発生した学生会館であり二文連であったが、権威への反抗という概念やマルクス主義思想を前提としない学生が多数派となり、学術系サークルや本部の運営が苦しくなってきたのではないか。数十年前、学術系サークルが理論的支柱となり作り出した学生会館のシステムであったわけだが、団体・社会に対する主体性、自主性、自己責任感の欠落した学生の増加と、その結果としての学生会館の衰退が生じて来ている。「自主」を叫ぶこと自体多くの学生にとって、既に時代遅れなことなのかも知れない。「世界における自己の役割」という概念の消滅は宗教の衰退を呼び、「社会における自己の役割」という概念の消滅はノンポリ学生を増加させる。「友達や異性や企業」に対してどんな役割を果たせるか、それが多くの現代学生が必死に立ち向かうテーマである。

◆資料2
・2005-03-11「クロスロード=クリティーク」廃墟としての左翼 http://p.tl/0eoA
↑参考資料
井土紀州監督『LEFT ALONE』 http://p.tl/XwfC 
・映画一揆 井土紀州2011公式blogより 井土紀州『LEFT ALONE』製作ノート vol.2 http://p.tl/rSzM

灰野敬二氏インタビュー

 法政大学学生会館でのライブ出演が最多を誇る、ミュージシャンの灰野敬二氏にインタビューを行いました。
 灰野氏のプロフィールは、(公式サイト→ http://p.tl/Ptt3 WikiPediahttp://p.tl/PXd9 )を参照。

2011/07/17 池袋の喫茶店にて

――法政大学学生会館の解体について

(灰野氏)まずね、僕の方から言わせてもらうと、単刀直入に言ってしまうけど。あの素晴らしい空間があったのに、みんなが油断したからとられちゃったんだよ。ある時期に、あそこは学校側に管理されるのではなく、学生のものにできたわけじゃない? 僕は、勝ち取った、時代のせいで、という言い方をするけど。それもシビアに言うけど。あんな良い場所があったのに、そこにいる人間が「24時間居られる」って事に対して。なんでもそうだけど、モノがあるのは自分が求めたからあるのか、与えられているのか、意味違うじゃない? それこそ受動的になるのか、能動的にものを考えるのか、って事と全く一緒で、はじめに、勝ち取った、という言い方をあえてするね、学生はやっとあそこを手にいれられたわけじゃない?あそこをどんな思いで(時代のせいにすると言うけど)手に入れたのか、時には手に入れるために怪我をしたやつもいるかもしれない、殴られたやつがいるかもしれない。そして、手に入れたら、すごく大事にしなきゃならないと思う。ところが、大変な思いをして手に入れたのに、一旦、手に入ってしまうと、人って、油断が生じやすいよね。時間が経つにつれて、自由にできる空間がある、あそこにいれば一日ぼうっとしてられる、まあ、言ってしまえば、怠けてられる。そういう、だらしない空気が流れていたから――つぶれたんだよ。あそこを「自主管理」のもと、っていうことで、きっちりやっていれば(もう7年経ってるか)あんな結果にはならなかったと思う。ある時期から(建物が古いとか消防法とか以前に)だらしない奴が、君の先輩たちが、あそこに居るようになったから、学校側としては非常に侵入しやすくなったんだよ。結局、入っていけない場所があるっていうことは、誰かが管理している訳でしょ。管理している人間達にとっての、自分達の部屋をちゃんとしておけば、何も入ってこられなかったんだよ。

(続き)なぜ、こういう事を言うかっていうと、(聞いた話っていうことにしておくけど)君が憧れているようなライブをあそこでやったと、お客さんがたくさん入ったと、ものすごい入ったと、その時にバンドに払うギャラはある程度で済んだと、それでも相当な額はでたらしい。学館のライブって利益にしてはいけないっていう、利潤を追求してはいけないっていうことで(この言葉がすごい罠なんだが)、聞いた話だけど、君のOB達がその日タクシーで何人かが高級バーで金を使ったと。闘う、とかなんだかわからないスローガンを掲げてる人間が、隙をみせる。(警察や学校に対してではなく)自分自身が隙をみせてしまう。隙って楽なんだよ。24時間使えるって事は、24時間をどう使うかを、ちゃんと自分自身でコントロールする事。それができる人間なんていないって。だとしたら、どうすれば凝縮した時間の使い方ができるかを考えるのか、怠惰な方向にいくのか。そこで、闘ってる、っていう、スローガンばかり掲げてる。すると、(解体のきっかけとなった館内でのボヤの件で)お前たちで管理できないじゃないか? お父さんに返しなさいってことになる。子供が親に対して何かを言いたいのならば、親以上にしっかりしてなければダメってことよ。それを学生ができなかったんだよ。できなかったってことは、自分の不満を言ってただけ、ってことなんだよ。世の中を変えたいとか、変えようとか、不満を言ってるくせに、酒とか煙草とかだらだらして、君たちのOBが今、何をしているか、見つけてみたら面白いと思うよ? 結局そこで、闘い方を学んだんじゃなく、反対に、資本主義のあり方を身につまされたんだよ。あと、立ち位置としてはっきりしておきたいのは、僕は、決して、過去の人間、ではないから。ここが、みんなと立ち位置が違うからね。「昔そうだったよね」っていう人がいて、そういう人達が学館を美化するのよ。悲しいかな、ちゃんとしていないモノはなくなるんだよ。何かを打ち立てた者、運動をしていた者、色々な事を(過去ね)「していた」者が、現在どうしているか、を見た方が良いよ? 10年ぐらい前の先輩が当時、学館でどんな運動をやってて、そいつらが現在何をやってるか。(そいつらが)途中で、もういいや、ってなって、ある種の、作り上げた祭り、が美化された。法政の学館で起きていたコンサートを、そういうものだと、僕は思ってる。

――それでも、個人的にはとっても楽しい思いをさせてもらった。学館で。

 毎回、僕が学館でやる時、それも1年に1回、10年ぐらいやった不失者で、毎回実行委員が僕のところへわざわざ来て、「どうしてやりたいんですか?」って言うの。そういう事をいうのは、はっきり言って、あそこしかなかった。ただやらせるんじゃなく、何でやりたいのか。僕がやりたい事を、面白いと思ってくれたら、やるって事は、僕との関係においては、はっきりしてた。今までボロクソに言ったけど。僕が音楽・コンサートをやる事において、一番緊密な関係でやれた。殺し文句だけど「僕の遊び場」と毎回言った。ある時期から、予算が大学側から下りなくなった、けれど、彼らは運営を実行した、僕に知らせずに。不失者の最後の3、4年は実費でやってくれた。僕のやる意義に対して、リスクを背負ってくれた。今でも僕は仲間だと思ってる。最後の頃なんてスタッフが1人とか、あったと思う。あれは良くやったよ。(スタッフが)東京中の馬鹿でかいアンプを揃えるのに2日かかって、トラックにアンプを全部つめこんで、法政に持っていって、3日、4日徹夜なんじゃないかな。1人だよ1人。彼には今でも感謝してるし、敬意を払ってるよ。

――80年代、法政学館ではパンクミュージックが盛んでした。

 パンク馬鹿って言ってた頃だね(笑)。メディア的には僕たちは「その裏」って扱いをされてたと思う。法政が何か共感を持って、それを「政治的」とみなそうとして、そういうイベントをやったと。パンクって言葉のイメージに関しては、俺たちの方がパンクだと思ってた。「おまえら頭が悪いよなぁ」って、法政にも思ってたけど、何が「政治的」なんだよ。(80年代は学館でのライブ出演が)少ないというか、全然ない。本当にライブに呼んでくれるようになったのは、95年以降とかじゃないかな? 本当にパンクには何にも興味なかったから。

――客として学館でライブを見たことはありますか?

 あるある。お客さんなのか対バンで見てたのか。舞踏とか芝居とか見に行ってたんじゃないかな。あの空間でそんな事やるかみたいな。いやもう、個人的には大好きなところだね。悔しいのよ、何で、残せなかったのか、ちゃんと管理できなかったのか。

――怒涛のような出演数の90年代〜00年代の話へ

 その時の僕のマネージャーが、ロックよりもジャズの方が好きだった。それでそういう人を招聘したから、ピーター・ブロッツマンとかバール・フィリップスとか。今でも海外で一緒に演ってる。「僕の遊び場」っていう言葉は、ものすごく深い意味があって、何をやっても許される場所だから。実験であり、エクスペリメンタルであり、人からみるアバンギャルドであり、ロックであり。俺もそういう場所だから、毎回演ったのよ。俺も(当時)40近いわけだから、40近い人間が「遊び場」として認めるっていう所は、(自由って言葉を使うと不自由さが生まれるから嫌だけど)わかりやすく言うとものすごく自由空間だから、だから、演らせてって言ったの。法政大学学生会館大ホールが、狭っ苦しいカテゴリーがあるような場だったら、俺は演らせてって言わない。そこで意志疎通ができるのよ。毎年不失者でやる時に。

――ロックス・オフの呼ぶ側のセンスも独特ですよね?

 それが、アナーキー気取り。音楽センスは他のところに比べれば良いでしょ。個人的な趣味・主義でロックス・オフはやっていた。だから信用できた。個と個の繋がりでできるから。(学館で)80年代はパンクを演ってた訳じゃない? そこに不失者を演らせろってのは大変だったんだよ。俺たちの方がどれくらいパンクで、俺たちの方がどれくらいアナーキーだ、っていう事をしゃべり続けたよ、確か。それで、わかりました、ってことで始まったと思うよ。音楽好きな連中、ではあったと思う。ただ、みんな、パンクのメッセージ性に騙されてた、ってだけでしょ。メッセージ性ってのは、うさんくさいんだって。自分が被害者だと思っちゃってるから、加害者に向かって、メッセージを放ち続ける訳じゃない?

                          

――俺が未だに音楽をやってるのは、人よりも音楽が1億倍好きだから

 音楽が好きだから、どんどんいっぱいやりたいから、色んな事をやってるように思われてる。「灰野さん何でもできますね」って言われるけど、違う違う。俺は好きなの。まぁやる側としては(学館に)やっと呼んでくれたっていう感じだよね。今まであまり声がかからなかったのに。音楽をずっとやっていると(言葉の説明では足りないけれど)好きが加速するの。もっと自由になりたくなる。客観的に今見ると、法政の学館の中においては、そういう風に加速していって、音楽じゃなく、メッセージとか行動とか、言葉じゃないモノが、違うモノに変わった時に、「通常にはあまりないモノ」に転換していくんだと思う。やりやすくなっていった、のは確かだね。

――「最後の砦」

 自分の音楽を始めた時期、っていうのが、具体的に言うと1970年。その時に、「ごっこ」は、いっぱいあった。「ごっこ」は、あったの。ところが「ごっこ」さえも、なくなった。っていう意味で、「最後の砦」。闘っている、と思い込みたい人間達の、砦。で、たぶん、比較される「西にあるあいつ」(京大西部講堂)。たぶんすごく憧れていると思うけど、ロクなもんじゃないよ。自由を謳うから、70年代の変な部分についての自由、を謳っているから、ミュージシャンには「ノーギャラでも文句ないでしょ」みたいな感じになるの。ここで寝せんのか! みたいな感じもあったし(笑)、そういうのが隙をみせているって事。自由ってものは、ものすごくちゃんとやらないと、手にいれることはできないと思うよ。

――「それぞれ個人でやっていく事の確認の機会」

 そこに居て、何かをやっているつもりの人達が、組織が解体された後。場所があって組織が成立していたのか。保険の場所が奪われてしまった訳だから、個人が何をやりたかったのかが出るはずだよね。それが、何も出てこないじゃない。あそこは何度も言うけど、学校が入ってこられない、学校側が管理できない場所だから、でき得た訳だよね。だから、そこにおごりがあり過ぎたんだよ。絶対に、あそこのままでいられる、っていう。一言で、権力に対する反逆という意味では、貫いていたと思うよ。

――灰野さんの音楽キャリアにとってライブハウス「法政大学学生会館大ホール」とは

 好きなことを本当にやらせてくれた。それは言い切れる。それが時に迷惑をかけたことも認めて、反省してる。本当に好きな事をやらせてくれた。何をやってもいい、ってことを証明させてくれた。自分自身が、ある時から開放されていくから、いくらでもできちゃう。それと、社会との接点ってことで話し合いをして、昼間からやろうってことで落ち着けた。法政が無かったら、不失者の7〜8時間のコンサートっていうのは実現しなかったと思う。今、僕が活動していなければ、素晴らしい思い出だけど、10時間演ろうと思ってるし、現在、演っている訳だから、それを美化する気はない。ただ感謝はしてる。それはもう言い切れるから。8時間演奏できるなんていうのは、ライブハウスではできない事だから。僕が僕自身を確認できた場所でもあるよね。俺、こんな音楽好きなんだ、みたいな。法政大学学生会館大ホールに行くと空気が違うんだよ。行くと「うわぁ」って、寒々するけど、決してネガティブじゃない。頭の中にあるだけで、現実にどうするかわからないけど、「法政大学学生会館大ホールのように」っていうコンサートをやろう、と今思っている。とてもシンプルだけど、「場」とか「場を作ってくれた人達」には敬意と感謝を。これは一生変わることのない。ただ、法政の祭りに足りなかったのは、自分より大きいものに対しての畏怖、畏敬の念が無かったからダメなんだよ。何かに対する感謝が足りなかったからダメなんだよ。

――今後、オファーがきたら法政大学でライブをやりたいですか?
 
 全然やるよ。断る理由が何もない。「昔は良かった」っていう言葉は使いたくない。

――長い時間ありがとうございました。

大熊ワタル氏インタビュー

2011/07/01に行った大熊ワタル氏のインタビュー動画です。(2分割)
プロフィールはシカラムータのHP(http://www.cicala-mvta.com/)を参照。
 


 法政大学学生会館での最後のライブに出演し、自身でも学生会館についての文章を書いている大熊ワタル氏。
『音の力〈ストリート〉占拠編』(インパクト出版会)に収録された「コンクリートは解体しても歌の在りかを消せはしない―法政〈学館〉の記憶のために」から重要な部分を抜粋して紹介していく。

・The Same Old Songs
 2004年11月21日、法政大学学生会館。酔っ払った学生たちがやけっぱちな調子で高吟しながら学館に入っていった。僕はこの日、学館のホールで最終イベントとなった学祭オールナイトコンサートの舞台に立つことになっていた。(中略)
 学館には乱痴気が似合っている。僕らも、思いっきり乱暴に演奏した。しかしお祭り騒ぎの気分ではないのだ。盛り上がって終わりで、それでいいのか。舞台の闇のなかでステージの精霊たちは何を思っているんだろう。ステージは演りきった。しかし終演後も、もやもやが残ったままだった。
 そして、すっきりしないまま数週間後、ふと気になって、取り壊しが始まったという学館の様子も見に行ってみた。天井や壁は大部分取り除かれ、ホール内部が青天井に無残な姿をさらしていた。しかし、それはホールの精霊が、僕に見てほしくて呼んだのかもしれないと思うほどだった。
 それからだ。僕が学館の追悼文を書くことにしたのは。みんなはどう思っているんだろう。いろいろな人たちと話がしたくなってきた。

・追悼・法政大学学生会館 1973〜2004
 学生の自主管理のもと、意欲的なコンサート企画などで、西の西部講堂・東の学館と、並び称されてきた法政大学学生会館が、昨年(2004年)末からついに解体作業に入った。(中略)
 そこで、関係サイト「法政大学学生会館閉鎖〜新複合施設建設に関する情報」に挙げられた説明会議事録(7月)を見ると、学生部長の説明で以下のような下りが目に付く。「ご存知の通り現在高齢化や少子化が進む中で、やはり大学の生き残りをかけるためには、新複合施設の建設による教育環境と学生サービス環境の改善・充実が不可欠でございまして、もともと手狭で貧弱なキャンパスをやはりより有効な方法で再開発する必要があると考えたわけです。」
「生き残りのための施策」を、ボヤのあと、あわてて考えたわけでもないだろう。今後の学生数の減少をにらんだ中長期的な計画の一環とみるのが相当ではないか。(中略)
 以上から見えてくるのは、ボヤのあるなしに関わらず、学館は早々に取り壊すつもりだったであろうこと。そして「自主管理」は学生側の失点もあり、学館とともに葬り去られようとしている。(中略)
 筆者はホールのたんなる出演者にすぎないし、学内事情に特別の興味はない。しかし、少なくとも80年頃から、ほかでは見られない、学館ならではの公開ライブ・企画が数多く打たれてきたことを知っている。少なくとも二回、決定的なライブに立ち会っているし、そればかりか、何度もホールの舞台に立たせたいただいた。とりわけ最終の学館オールナイトコンサートに呼んでもらい、ホールに別れの挨拶ができたのは忘れられない記憶になるだろう。(中略)
 最後にもうひとつ。30年間の開かれた場としての記憶・記録はどう総括され、共有されていくのか、いかないのか。この一件について、今のところどこからも何も聞こえてこないのはあまりにさびしいことではないだろうか。それでいいのか!? 学館が泣いてるよ!

・極私的学館ノート〜東京街路'79
(中略)自分たちの自主管理空間……? すべて学生たちで自主的かつ非営利的に運営されている。たとえば折込のビラも営利的とみなされれば入れてもらえない。録音物などの販売も基本的にできない。音響や照明も学生たちだな〜……。しかし、普通のライブハウスにはない面白い匂いがする場所……。

・学館/ROCKS→OFFにかんする2、3のできごと
 注:ROCKS→OFFの発足は78年〜79年であり、79年にも恒常的に公開コンサートが企画されたようであるが、方向性などにおいて不満が残るものだったようだ。
(中略)一般の音楽関係者・愛好者にとっては、学館とはROCKS→OFFのコンサート、といった印象がほとんどだろう。それだけROCKS→OFFが展開した企画は、特に80年代前半、半端なものではなかった。
 そして、80年代前半の当初、ROCKS→OFFの顔といえば守屋正だった。(中略)
「場所なし。何でもやりたかった。当時はまだライブハウスも少なかった。そこへ、自分のホールが持てる! とにかく死ぬほどライブをやろう! ……そう思った」(守屋氏)
 こうして80年のImaging kids garage 3days コンサートを皮切りに、同年度15本、81年度30本、82年度25本、83年度22本……と爆発的な勢いで自主コンサートが企画され、東西のパンク、ニューウェーブ勢を中心に新旧のアンダーグラウンドバンドが怒涛のように出演している。(中略)
 アンダーグラウンドでも最深部の面々や、逆に全く無名のニューフェイスでも話題性があれば顔を並べていて、企画サイドで幅広く目配りを利かせていた様子がうかがえる。
 そして、82年頃から、プログラム編成に、あらたな傾向が出てくる。次第にパンク・ニューウェイブの「うさんくささ」、つまり、反体制っぽさを装うその身振りの薄っぺらさが鼻についてきたのだという。

・「裏方もスタッフも表現者だ」
 それまでの学館の利用が自分たちのやりたいことをやる、という至極当たり前な目的から学生だけの場でなく、外に開いた自律的公共空間を恒常的に提示するというROCKS→OFFの発想は、それまでの学館利用のありかたを大胆に更新する画期的なものだったろう。とはいえ、それは、学館自主管理の内在的性格=開放・共有といったものの展開だったはずだ。(中略)
「私達は学生会館を単なる建物としてとらえるのではなく、「運動体」としてとらえています。建物を静的な「器」としてとらえず、自主管理という運動理念のもとに私達の自主的文化創造の場へ開放してゆくことが学館自主管理なのです。」(80年度第1回目ROCKS→OFF企画コンサート「Imaging kids garage」パンフより)
「我々ROCKS→OFFは、一段高いステージの上でくりひろげられる既成のシステムを拒否し、我々自身の手で管理してゆけるシステムを創出してゆくと言う方針を打ち出している。また、それは、様々なシーンで活動を続ける外部の運動体とのコミュニケートをはかり、我々の「ストリート・シーン」を形成してゆこうとする動きにもなっている。」(81年度学生連盟発行「学生会館への案内」より)
 法政学館といえば、京大西部講堂と並び称されたものだが、70年代から数々のロックコンサートなどでカウンターカルチャーの殿堂・牙城として知られていた西部講堂は学館スタッフの当事者においても、自主管理空間の先行モデルのひとつとして明確に意識されていたようだ。

・メディアの牢獄から自律空間へ
 西部講堂、法政学館、自主管理と並べると、どうしても連想されるのは同時期にヨーロッパ各地で盛り上がった「アウトノミア(自律)運動」ではないだろうか。そして法政学館でも実際に、当時アウトノミア運動の紹介で注目を集めた粉川哲夫氏をメインスピーカーに招いたイベント「パフォーマンス&ディスカッション インジェイルVol.1」が打たれ(83年6月)、粉川氏によるアウトノミア運動の紹介、当時獄中にあったトニ・ネグリのメッセージ代読など、多数の被弾圧者への連帯がはかられた。また実際に、自由ラジオの実験や、ライブ演奏・運営形態なども含め、「アウトノミアのコピーではなくその創造性の『密輸入』を通じて、"運動の想像力"のトレーニングを積むこと」(平井玄)が試行された。
 今でもヨーロッパでは、いたるところ、どんな地方都市にも、廃工場をなどを占拠した自主管理空間があり、小は共同居住空間から、ホール、映画上映室、食堂を備えた大規模な施設まで、さまざまなバリエーションが見られる。表面的に言ってしまえば、まさに「千の学館・千の西部講堂」があるのだが……。(中略)
 
 以下、粉川哲夫氏のコメント(編者注)

「基本的には、日本では、道路交通法をみてもわかるように、「自主管理」は不可能な法制度・慣習になっているわけです。そのへんは、根本的に海外とは違うと思います。」(中略)
 また、学館のような自主管理空間が、結果的に法政でのみ可能だったことについて、粉川氏は学内政治力学、つまり、「セクト・当局・事務系の旧左翼系など、複数の政治勢力のせめぎあいがあり、その隙間のような空間があったからではないか」と分析。さらに学生をめぐる環境の変化について、以下のように語ってくれた。
「90年代を境に大学の運営状況(経営難)、学生の政治意識が変わったことも関係があると思います。最近の学生意識の変化(「柔順」、「権威に対する恭順」)は、アルバイト環境の変化(マニュアルによる徹底した教育)とも深い関係があるでしょう。アルバイト先で命令に従うことをたたきこまれるため、自己主張をしないという意識をうえつけられている。やりようによって「おいしい」アルバイトは、70〜80年代よりも増えていますが、それだけ、雇う方は好きなように「教育」できるので、それだけ「洗脳」される度合いも強くなるというわけです。」
(中略)学館解体の噂が広まって以降、僕の知る範囲では、近藤康太郎氏が朝日新聞や『週刊金曜日』に書いた記事以外、学館解体にふれる言葉は見あたらなかった。

・追記(以下は編者によるまとめ)

佐藤浩秋氏の証言
(ニュー・ジャズ・シンジケート(NJS)について)
・NJSは、ピアニスト原寮を中心に形成された。
・学館ホールのテストパターンで出演した庄田次郎と原のグループが元になっている。
・1969〜71年夏まで新宿ピットインの2階に存在した、当時ほぼ唯一フリージャズのための場だった「ニュージャズ・ホール」。この閉鎖後、失われた自由空間を再び創ろう、との呼びかけで結成されたのがNJSだった。個人参加を原則に、若手プロから学生らアマチュアが集まった。阿部薫、井上敬三、梅津和時近藤等則富樫雅彦、豊住芳三郎など、当時のフリージャズ系ミュージシャンがゲストとして関わった。

(実力入館時の事)
・入館以降は、夜間ロックアウトや鍵の管理などをめぐる「三条件・六項目」を粉砕する闘いとして学館闘争が続けられた。1977年の夜間ロックアウト粉砕闘争での弾圧(たてこもった308名全員逮捕)は戦後の学生運動でも最多記録である。

○品田豊樹氏の証言(70年代後半世代の問題意識について)
1、「三条件・六項目解体」「学館自主管理貫徹」「(多摩)移転阻止」
2、オールナイトコンサートや外部に開かれた多様な企画は、夜間立ち入り禁止・学外者立ち入り禁止といった規制を実質的に無効化するものだった。サークル文化活動は余暇・趣味・息抜きのレベルでなく、社会と自己の緊張関係の中でとらえられていた。
3、音楽系サークルは、ヤマハ的商業主義や、硬直した社会主義リアリズム的発想を批判して、自前の表現を追及するというような意識であった。

木部与巴仁氏の証言
・1975年発足の「ロッキー・スーパー・ショー」が、78〜79年に当時のパンクムーブメントに触発された形で「ROCKS→OFF」と改称した。

○赤岡広章氏の証言
・1994年に自治会費の流れが凍結される出来事があり、学館自主企画のトーンダウンに繋がる転機だったという認識は間違いない。
セクト派の学生とノンセクトの学生とではとでは学館運営や大学当局に対する行動に対して、意見の相違があった。ここで発生した暴力事件によって、学館運営に大きく支障をきたすことになった。
・学生気質の虚弱化の一端は、学館に頼らなくてもサークル活動できる外部の環境の変化にある。音楽サークルは定例ライブが、一般のライブハウスで行われる頻度が増えた。映画サークルは学館でイベントを行う回数が年に数回という状況だった。よって、学館に対する依存度が減っていった。
・組織運営や運動そのものに関心を持つ学生は極端に減り、そうした学生は「奇特」とされ、本部組織へ代表を出すことを「人身御供」などと揶揄する向きもあった。


 『10周年記念「シカラムータ凸凹珍道中漂流記」』での学生会館にまつわる話
・平井玄×大熊ワタル対談より 一部抜粋

(大熊)抵抗の盛り上がりもなかった。一部であったとしても、外までは聞こえてこない。少なくとも、一般学生は容認なんでしょう。

(大熊)かつては、法政の学館とか、拠り所になるスペースがあったんだけど、それも名実ともなくなって、どういう動きになっていくのか。そういうホール的な場所がなくても動いていけるような、サウンドデモみたいなのにシフトしてきてるのかもしれないですけどね。

音の力 〈ストリート〉 占拠編

音の力 〈ストリート〉 占拠編

  

事業委員会発足以前の企画団体

◆「シアターゼロ」「ROCKS→OFF」「黒いスポットライト」の設立以前、学館開館当初から企画を行っていた企画団体の紹介。
 「学生会館への招待」(1977年)より部分転載

・「ニュージャズ・シンジケート」
 ニュージャズ・シンジケート(NJS)は、演奏空間の限られた(ニュージャズ・ホールの閉鎖と商業的ジャズ・スポットから締出された)若手フリー派ジャズメンに広く空間と時間を解放するもので、その場においては、過去のグループ演奏という方法を解体しミュージシャン個人対個人の対決と創造的な発展の場とするこれまでにはみられないユニークなコンサートとして毎月1回開催して来た。(中略)当初は数名のミュージシャンで出発しつつも、現在では30名を越すミュージシャンの参加があり、日本のジャズシーンにインパクトする一つの大きな「場」として定着するにいたった。また学館大ホールを中心に京大西部講堂のコンサートに20名以上が出演したり、第2回インスピレーション・アンド・パワーにも総体で参加、全国のジャズ・スポットへのコンサートツアーも活発におこなっている。

・「シネマテーク
 現在の映画状況においてブロックブッキングシステムによるプログラムピクチュアーによって独占的に牛耳っている映画産業は衰退の一途を辿っている。自主上映においては自己満足的な要素を拭い去ることができず、映画産業による圧迫の中で、より個の主張をあらわすことができない状態になっている。その中で、シネマテークは、月に1・2回の定例上映会による作品の限界、観る側との溝を解消することより、より的確な我々の主張として、75年9月よりパンフの発行、76年4月、会員制の導入、76年10月、機関誌シネマテークへと移行してきた。また、我々の手中にフィルムがない現実、既成映画上映への限界など否定的にとらえる中、76年10月より自主制作「法政ニュース」の開始と自主上映、自主制作と総合的映画運動を構築してきている。

・「ロッキースーパーショウ」
(中略)また学内にとどまらず、学外のアマチュア、プロで発表の場を持てない埋もれた存在のバンドなどにも参加を呼びかけ、有名プロにも時には出演してもらい、ミュージシャン間の交流にも務めている。そして、学生会館を一つの拠点とした法大ロック文化の発展向上を望み、我々の直面する諸問題へのひとつの視点として取り組む方向性に沿っていっている。
 以前、反体制のものとしてあったロック及びフォークが今日ファッション化された売り物でしかなくなり、アメリカ、イギリスからの請け売り要素の強い日本ロック文化は、マスコミに毒された脆弱なものとなってきている。我々はこのファッション化されたロックの現状を打破し、もう一度、文化としてのロックを確立しなくてはならない。つまり個人的な葛藤の産物のロックではなく、社会体制への疑問及び反動の中から常に出発し、そこから生み出されるべき若者文化の中のロックの存在意識を高めていかなければならないのではないか。
 所詮、ロックは趣味の音楽でしかなく、ロックのファッション化に無意識に憤らされた人には、はなはだ時代錯誤に感じられるかも知れないが、根本に流れるものを決して忘れることなく、文化としてのロックを考え直さなければならない。
 我々は学生会館を軸として、サークル文化をとりわけロック文化の創造運動の目的を成し遂げるための一過程として。このロッキースーパーショウをやってきたし、今後も続けていきたい。

日本フリージャズ史

日本フリージャズ史

 

事業委員会についての資料文

◆「学生会館への案内」学生会館学生連盟 1982年 より一部転載
・シアターゼロ

「映画は、上映されることが、なければ、作品として存在したことにならないし、それは単なるセルロイドのくずでしかない。」ということを、シアターゼロは、断じて忘れてはならないと考えています。しかし映画情況の諸関係は、その語の無力性を証かしたてるかのように、動いています。
 それ故に、シアターゼロは、学生会館を、映像(映画だけでなくビデオ等々含め)の交通磁場を形成したいと考えている。現在までゴダール西ドイツ映画ボリビア映画など海外の作品を上映すると共に、「実験」映画、「個人」映画、ドキュメンタリーや、いわゆる「自主」映画も、積極的に上映してきた。

・黒いスポットライト

 60年代以降、テント・小劇場演劇は、当時の時代背景とともに、新劇「運動」の限界性を明確化するものとして登場した。この新しい演劇観をもつ集団の公演活動は、その先陣としてあった。例えば、状況劇場にみられるように、キャンパス、街頭の占拠というかたちで行われ、様々な反体制的人々のエネルギーと結合し、肯定的にとらえるならば、既成演劇文化情況に侵攻する陣型を切り開いたといえる。昨年度黒いスポットライトでは、劇団究竟頂、拠点劇場というテントあるいは陣幕という型態で表現活動を続けている2劇団の公演を企画したが、既成の劇場―演劇空間では成立しえないものとしてあるその活動から克ち取られる内実を検証し、継承すべき課題、提起され続けてきた課題にこたえていく方向性を持ち、これからの活動を展開していきたいと考えている。

◆「学館20周年企画 事業委員会フェスティバル」1993年 小冊子より一部転載
・黒いスポットライト

 我々にとって最も身近な演劇である。いわゆる「アンダーグラウンド=小劇場」演劇(以下、「アングラ」)は、その出現においてだけでなく展開過程においても、運動的であったといえよう。ある日、突如として新宿の街にその姿を現した、唐十郎率いる「状況劇場」の「紅テント」は、それ自体「アングラ」の先駆的存在であったのみならず、「アングラ」出現の象徴的存在といっても過言ではない。同じ頃、唐十郎だけでなく鈴木忠司の「早稲田小劇場」、佐藤信の「黒テント」、寺山修司の「天井桟敷」などが、互いに緊張関係を保ちつつも連動する運動として展開されていった。
 彼等は、当時既に何ら社会的インパクトを失っていたそれまでの演劇=「新劇」に対して自覚的に自らを区分し、批判的位置に置いてその姿を現した。それは、演劇を成立させていた関係、および演劇を演劇として成立させていた社会的関係と社会意識の転移を迫る侵犯力を備え、また、それゆえに様式の変革を必然とするものだった。こうした演劇は同時代の観客の想像力と出会い激しく共振することによって、演劇<文化>状況、社会状況を創出した。
(中略) 
 我々は、自らの企画を批評性を持った社会的インパクションとして構築してゆくことで、今日の演劇が依拠する安定的地点を踏破してゆく・しかし、それは、「アングラ」以前の演劇立場から今日の演劇を批判することでも、「アングラ」の復興や、あるいはその地点への回帰を指向することでもない。「アングラ」の出現は、それ自体が新劇=近代演劇の無効を前提とした批判であったし、「アングラ」さえも近代的な想像力の枠内に回収され、その再生産装置として機能している今日の状況に対する批判こそが、我々の活動の前提である。